闘病ブログ

未来への手紙

入院生活2日目

早く目が覚めてしまった。
熱は点滴に入れた薬のおかげで下がったようだ。

私はどこにいるんだろう?

今や身体の一部となった点滴を引き、私は外に出てみようと思った。

4階からエレベーターで下り、外にでてみる。
今は朝の7時、冬の空気は病院で借りた薄い寝巻きでは冷たすぎる。

晴天だ。
外には普通に歩く人々。駅に向かっているのかな?
彼らから見た私は、病人そのものにしか見えないだろう。


今日は土曜日だ。

午後に知人がお見舞いに来てくれた。その後に医師と両親との話があるので、1時間ほどしか時間がない事が申し訳なかった。

私は出来るだけ元気に振る舞った。
実際に体調も良かったし、歩いても痛みはない。

ただ、自分がベッドに寝転がる姿は見せたくなかった。病院内の喫茶店で会う約束にしたのだ。

「大丈夫?でも歩いて平気なんだ。元気そうで良かったよ。」

「元気、元気。まぁ死ぬかと思ったけど。」

私は今ままで起こった事を話し、これからどうなるかは正直分からないと告げた。

知人は話をよく聞き、早く良くなるようにと、精一杯励ましてくれた。


知人が帰った後、私はまたベッドで寝転がっていた。

しばらくして両親が部屋を区切っているカーテンが開いた。
「大丈夫か?」

「あぁ。今日は熱もないよ」

私の父はあと数年で定年を向かえる会社員だ。たまに親元には顔を出しているので、白髪が多い変わらない顔がそこにあった。


3人で話を交わした。病状については医師の話を聞くまで先入観を持つのはやめよう、という考えは共有できていた。

1時間ほどたち、話の話題も尽きてきた頃、看護士が私たちを呼びにきた。


医師の部屋に入ると、そこには40代ほどと思われる男性医師が既にテーブルに座っていた。


3人が席に着くと、医師は右端の父の方を向き、説明を始めた。


「それでは病状について説明します。これをご覧ください。」

テーブルの上にいくつか白黒のレントゲン写真のようなものを並べた。

「簡単に説明しますと、ここが胃、胆、胆管、腸、すい臓です。ここにあるように、胆嚢と胆管との間に白い点がありますね。これが痛みの原因の胆石でしょう」

私は脳と持っている知識を全て働かせ、医師の話を一言も漏らさないように集中していた。

「ここまでいいですね。しかし、この胆管を見てください。普通の胆管はすっとこの様な管状ですが、この胆管は通常の何倍も膨らんでいます。おそらく先天的なものでしょう」

医師は手元の紙に臓器のイラストを書き、そしてこう書き足したした。

【先天性胆管拡張症】

「これは見つかり次第、必ず摘出手術をすすめる病状です。放っておくと、40、50になった時にガンになる可能性が高くなります。」

私は【ガン】という言葉を聞いた一瞬、身体が固まった。その言葉が治療できない、死への病だと認識しているからだ。
そしてそれは、少し前まで自分からは遥か遠い未来の心配事だと思っていた。しかし、私の中にある爆弾がカウントダウンを始めた様に思えて仕方がなかったのだ。

「ですので、胆管をとる手術が必要です。またそのために、もっと詳しい検査をしないと危険です。質問はありますか?」

父と母がいくつか質問を投げかける。やはり医師はどこかその質問を小馬鹿にしたように答える。

私の思い違いだろうか?
それとも医師というのはこれが当たり前なのか?

私は医師に対する小さな怒りとともに、よく分からない手術に対する不安で頭がいっぱいだった。

「この手術が終わった後、ご飯は食べれますか?」

私の質問の後、医師は椅子の背もたれに体重をのせ、こう答えた。

「さっきも言いましたが、天ぷらとかの重い物を食べたら胸やけするでしょう。ただ腹7分目で抑えれば問題ないですし、運動もできますよ。一般的な手術ですから。」

医師にとっては精一杯の慰めの言葉だったのかもしれない。しかし、私にとってはこの後の人生の、いくつもの選択肢を奪われた。
正確に言えばこの医師が悪いのでも、もちろん両親のせいでもない。
自分が持っている可能性のいくつかが、失われたように私には感じられたのだ。

「実際の手術は私ではなく、専門家にしてもらいます。12/11に検査をし、12/18に手術にしましょう。順調に行けば年末頃に退院となるでしょう。こちらがその検査の同意書ですので、サインしてください。」

私にはもう何が正しいか、ベストなのか分からなかった。

両親も恐らく同じようで、迷いながらも書類にサインした。

そして私の元に回ってきて、サインを促された。

書類の左側には、先ほど医師がかいた病状のイラスト。右側には「手術同意書」とかかれ、「麻酔」「術後の経過」など、見慣れない単語が並んでいる。

私はペンを手にとり、サインしようとする。

しかし、書類の手前で動かせない。これにサインしてしまったら、また自分の意志とは別の大きな力で流されしまう、それが怖がった。

30秒もしただろうか。沈黙の中、私は観念して書類にサインをした。



医師との話し合いが終わり、三人で談話室で休んだ。

私の希望はここに来るまでの、数分間で決まっていた。

座ってすぐに両親の目をみて伝えた。

セカンドオピニオンを聞きたい。」

入院生活1日目

熱が出た。
38℃を超えているらしい。
私の平熱は35℃台。
風呂なら3℃違えば火傷してしまう。


その朝に私は両親と会社に連絡した。

母は昼には必要な物を持って駆けつけてくれるそうだ。いつもは邪険にしていた、親の愛情が弱っている心によく染みる。
担当している仕事もあり、会社に入院の事実を伝えるのは申し訳ない気持ちになった。
しかも自分自身でも今後の見通しを説明できない。

私は何人かに連絡を取ったあと、いつの間にか眠りに落ちていた。

夢は見ただろうか?
覚えていない。

ほほに温かい感覚を感じる。ぼやけた視界に母の手が映った。

「大変だったね」


私の母は50歳を少し過ぎたぐらいだ。いまは都内で父と2人で暮らしている。

しばらく母と話わ交わし、私は高熱のせいかまた眠ってしまった。

途中で担当の医師がやってきた。

母親と私に説明を始める。

「おそらく痛みの原因は胆石でしょう。ただ検査をして分かったのですが、生まれつき胆管が広がっています。これは手術を必要とする症状です。詳しくは明日また説明をしますので、ご家族揃ってお話しましょう。」

私とおそらく母も突然の診断に戸惑っていた。

母はいくつか医師に質問をしていたが、的外れなことを、という印象で答えている感じがした。

私はベッドに引きこまれる様に力なく、一定のリズムで落ちる点滴を眺めていた。

緊急入院

あのサイレンが近づいてくる。
少しずつ大きくなる音が、自分を助けに来るためにやって来ると思うと不思議な気持ちになる。

私は119の後、少し冷静になった。
上着をかぶり、財布を持ち、靴を履いて玄関で体育座りをして待っていた。

「救急車を呼ばれた本人ですね。ご自身で歩けますか?」

「はい。」

3人の緊急隊員は落ちついており、私を連れて救急車まで歩いた。

初めて入る救急車の中は、見慣れない機器に囲まれ、どんな患者にも対応できるような頼もしさがある。

私は横たわり、緊急隊員に自分の状況を可能な限り伝えた。
また忘れずに持ってきた、紹介状を渡した。

「○○医院への紹介状ね…。ここは救急指定医院ではないけど、電話してみよう」

運転席の隊員が電話を始める。私はなぜか聞きたくない気持ちに襲われ、眼を閉じる。しかしかえって音に集中してしまい、会話が聞こえて来るのだ。

「…紹介状をもって…、はい…、…名前は…、そうですね。…、はい…、はい。分かりました。夜分にすみません。ありがとうございました。」

結果は駄目だった。
私も夜間の救急患者の受け入れ先を見つける事は難しい、という現実は分かっていた。
しかしいざ自分が体験すると、胸が締め付けられる。

緊急隊員はすぐにいくつかの病院の候補を探してこう言った。

「このA病院は消化器系の当直はいないから応急処置になると思います。けどここなら受け入れてもらえそう。ここに向かって良いかな?」
私は応急処置で構わないし、自分に選択肢がないことも理解していた。


「お願いします」

救急車は再びサイレンを鳴らし、走り出した。内側から聞くその音はどこか冷たく、白い天井を見つめながら身体を揺らしていた。

救急車が止まり、私はあおむけに寝たまま運ばれた。

暗い夜空の視界の中に「救急入口」の赤いサインが目に入った。私は自分が重度の病人だと気づかされ、ギュッと拳を握りしめた。

その後の記憶はおぼろげだ。点滴を打たれ、検査をされ、いくつかの書類をその場で書かされた。

入院手続きの書類を書いているとき、日付をみてふと感じた。

12/5。

厄年に終わりを告げる24歳の誕生日まで、あと10日を残した夜の出来事であった。

119

その日も私は会社に向かった。
体重はすでに3キロ落ちている。

異常だ。
胃炎と風邪をこじらせると、こうまでなるものだろうか?
しかしなぜ薬が効かないんだ。

自問しながらも仕事をこなしていった。
本当は早退したかったのだが抜けられない会議があったのだ。

仕事を終わらせてすぐに、病院に向かった。先週行った所にもう一度。

6時半。
ギリギリ駆け込んだ。

そして診察はすぐに始まった。前回とは違う医師だ。

「容体はどうですか?」

「薬を飲んでもまだ痛みます。食後2、3時間たつと、必ず。」

「そうですか…。それはおかしいですね、強い薬ですし。どの辺りが痛みますか?」

「お腹というより、右あばらの下、この辺りですね。響くように痛みます。」

私はこの時に初めて、自分の痛みを言葉にして伝えられた。
前回上手く伝えられなかった事を、非常に悔やんでいたのだ。

「このみぞおちの辺りですか?うん…、ちょっとエコーをとってみましょう」

医師は私の腹まわりに何かを塗って器具を当てた。
後で分かるのだがエコーというのは超音波で、内臓の様子が分かる器具らしい。

医師は出来あがったレントゲンの様な写真を見ながら、こう言った。

「胆石の疑いがあります。」

胆石?

石?尿管結石みたいなもんかな。痛そうで嫌だな!

胆?どこにあって何をする内臓だっけ?あぁ生物の勉強を真面目に受ければ良かった!

「どちらにしろ、紹介状を書きますね。こちらの病院を伺ってください。処方せんも出しますね。」

私は紹介状と薬を受け取り家に帰った。
明日の朝にその病院に行こう。会社にも朝は休むと伝えてある。もう心配ない。

私は油断した。
一番の失敗はこの夜かもしれない。


ゼリーの生活に我慢しきれず、私は卵がゆを食べてしまった。



痛みは二時間後。
10時から始まった。もらった胆石の薬も、痛み止めの薬も効かなかった。


激痛が走る。

胃液が出るまで吐く。

しかし痛みは止まらない。

苦しみながら、どうにか痛みを和らげる方法をネットで検索する。

風呂に入って血液の流れを良くしようとし、湿布を張り暖め、蜂蜜をとり引っかかっているだろう胆石を流そうとする。

しかし。

痛みは止まらない。
痛い。辛い。苦しい。助けて。痛い。嫌だ。ごめんなさい。痛い。死ぬのかな。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。

12/4の25:00。
痛み出して3時間。
私は生まれて初めて救急車を呼んだ。

入院前日まで

腹痛があった次の日もいつも通り出社した。

仕事は忙しく、体調も問題ない様だ。
昼に食べたトンカツも少し胃がもたれる程度だ。

問題ない。
昨夜の事は食べ物が悪かったんだ。
まぁ風邪かもしれないな。
笑い話がひとつできて良かったよ。

そう考え、普通の生活に戻った。


土曜日に近くの内科の病院を訪れ、診察を受けに行った。

「どうしました?」
「こないだ、夕食後に腹の上あたりが突然痛くなったんです。」

触診と話を聞き、医師はこう判断した。

「胃炎かもしれませんね、お薬出しておきますので様子をみましょう」


そうか…、胃炎か。
食生活の偏り、過労、仕事のストレス、睡眠不足。

なんだ全部当てはまるじゃないか!

胃炎か、うん、風邪と併発して痛みがひどいのかもな。

薬もあるし、安静にしておけば治るだろ!

痛みの原因に納得した私は、土日の休日には卵がゆを食べ、安静に過ごした。


月曜日になり、いつも通り会社が始まる。

しかしその日はいつも通りではなかった。

昼食後、あの痛みが襲ってきたのだ。

とてもではないが、絶えられない。


同僚に一言声をかけ、トイレに駆け込んだ。

ネクタイをとり、ワイシャツの首元のボタンを開ける。
そしてまた手をのど奥に思い切り突っ込んだ。


…どうして?
薬も飲んでるはずなのに。なぜ痛むの?

やるせない思いとともに、一時間ばかりトイレからは出られなかった。


席に戻ると同僚が心配そうに声をかける。

私は笑顔で答える余裕もなく、ただうなづいた。


この日から私の食事は、飲むタイプのゼリーだけになった。

入院の一週間前

いま思えばもっと早く気づいていれば、と後悔する事が多すぎた。

私は23歳の会社員♂だ。毎日の仕事に追われながらも充実した日々を送っていた。

しかし入院の一週間前から身体に突然変化が訪れ始めた。

仕事帰りの外食中にふと「腹のあたり」が痛む。

何だろう?
食当たり?食べすぎ?カゼかな?いやもしかしたらインフルエンザ?

アタマの中をいくつか候補がよぎるが、原因は分からない。

痛みは少しずつ強くなり、確かな鈍痛を自覚しはじめた。

私は痛みと不安な気持ちを抱え、家まで歩きはじめた。

一人暮らしの自宅に戻ると、スーツも脱がずにベッドに転がりこむ。

「痛い!痛い!痛い!痛いっ!」


脈打つ様に一定の感覚で痛みが響く。

このまま寝てれば痛みは収まる…だろうか。

そう自分に信じ込ませて布団にくるまる。


…。

痛い。

腹痛、ではないかもしれない。もっと上?

今までに体験した事のない痛み。奥側から肉ごとえぐられているような痛み。

どうしたら良いか分からず、母親に電話をかける。しかし出ない。
父親にもかけるが、こちらも出ない。

私は携帯電話を手にとり、「119」と打った。もちろん救急車を呼ぶのは初めてだ。

しかし、なかなか通話ボタンを押せない。

「もう少ししたら痛みも収まらないか?」
「ここは会社の寮だ、噂されてしまう…」

迷いがあと一歩を踏み出せない。


痛みにもがきながら呆然としている中、母親から電話がかかってきた。

「もしもし、どうしたの?」

「っかあっさん…、腹がさ痛すぎて我慢できない、んだよ。どうしたらいいかな?」

自分が声も出ない状況だと気づき、内心焦りながらも話を続けた。

「なに!お腹痛いの!?食中毒かもよ、救急車呼びなさい。それか友達を!」

「救急車は…、もしかしたら治るかもしれな、いし」

「あなたが呼べないなら私が呼ぶわよ!住所言って!」

「…、っいや、自分で呼ぶよ。またれ…んらくする…から」

私は母との電話を切り、少しの葛藤の後、ついに119と通話ボタンを押した。


「っあ、もし…もし」

「消防ですかー?救急ですか?」

「あのっ…、お腹が痛く…て。どうしたら良いか…分からなくて。相談…したいのですが」

「救急車を呼ぶ時に電話して下さい。どちらにしろ病院に行った方が良いと思いますよ。では。」

ツーツー

必死の思いでかけた電話は30秒ちょうどで切れていた。

怒りのような悲しみの感情を飲み込み、同じ寮に住む友人に電話をかけた。

「もしもし、どしたー?」

「た、頼みがある…、んだ。今すぐ俺の部屋にきてくれないか?はらが、腹がさ痛くて救急車を呼ぼうと、…思ってるんだ」

「分かった。すぐ行く。」

友人はすぐにきて、私の状況を確かめた。

そして直ぐに全て吐くように、と私に言った。

私はトイレまで這いずり、手をのど奥まで可能な限り突っ込み、吐き続けた。


胃液が出るまで吐き続けた後、ようやく痛みは収まったのだ。

友人に感謝の言葉を述べ、ようやく安心して布団についた。


しかし一時間もしないうちに、また痛み始めたのだった。

何だ?俺の身体はどうなってるんだ?

そう思いながらも、私はトイレで何も出せずに突っ伏していた。

そんな事をその夜は2、3回繰り返した。


そしていつの間にか朝を迎えていた。

なぜブログを始めたか?

2008年12月4日。

私は人生初の救急車に運ばれ、人生初の入院生活を今も続けています。

あまりに突然で、自分の事なのにどこか取り残されたように状況は進行していくのです。

このブログを書くことで自分自身でまず整理したい。

そして全てが無事に終わったら、の話ですが。

同じように不安な気持ちを病院で過ごしてる人の少しでも助けになるかと思い、ブログを始めようと決心しました。