闘病ブログ

未来への手紙

手術の説明(緊急入院から18〜19日目)

手術まであと3日。

今朝は朝からCT検査だ。CTが何の略語か分からないが、コンピューターを使って身体の断面図を表示するものなのだろう。

前の病院でも似たような検査をしたが、白く巨大な丸い門のようだ。その門に寝そべった身体を足から通されていく。


子宮のようだ。

そう、ぼんやり思った。


今回は造影剤という薬を注射した。打つとすぐに身体の血管隅々まで熱くなる。
沸騰した自分の身体を客観視しながら、人間の身体の不思議とそれに対する医学を尊いものと感じていた。



夕方に父と母が病室を訪れた。医師から手術に向けて最終的な説明を受ける事になっている。


約束の時間を少し過ぎた頃に医師は訪れ、小さなカンファレンス室という部屋でそれは始まった。


まずは医師から改めて病状を伝えられる。

先天性胆管拡張症。

病気の特徴も、医師が描いた内臓の絵もほぼ同様だった。

ただ一つ違うのは。

「胆石と見られる影が十二指腸の近くの管に3個ほどあります。恐らくこれが痛みの本当の原因でしょう。」

これまで明らかでなかった私の下腹部を移したレントゲンには、確かに3つの影があった。

「この胆石は今回の手術後に摘出した方が良いでしょう。もし同時、または手術前に対応しようとしたらリスクが高まってしまいます。術後の経過を見て、もう一度入院してもらう事になるでしょう。」

私は落ち着いて話を聞いていた。しかし日常はまた遠のいた。その事を知り、内心気が気ではなかった。


説明が終わり、両親が帰った後、私はベッドに横たわっていた。実は最近ちゃんと寝れていない。

もう、嫌だ…。






…。


……。




…………♪


突然音楽が聞こえてきた。


賛美歌だ。


こんなところで?いったいなぜ?


部屋の明かりが消え、歌声が近づいてくる。

あたたかい灯りが広がる。


「MerryChiristmas」

サンタクロースだ。

そこには十数人の白衣の女性が笑顔で歌っていた。

そうだ、こないだ張り紙で見た。医療専門学校生徒が病院訪問する日は今日だった。


「早く良くなって下さいね。」

サンタクロースの格好をした女生徒は満面の笑みでそう言った。


その何気ない一言が一体どれだけの勇気をくれるのだろう?


答えは簡単だった。
一つずつ良くしていくしかないのだ。



私は手をつけられなかった手術の同意書にサインを済ませ、久しぶりに安らかな眠りに落ちた。

いらだちと焦り(緊急入院から16〜17日目)

手術は12/25(木)に決まった。

詳しい検査の結果、幸い癌になってなかったらしい。


それを医師から聞いた時、「まだ生きていいんだ」と安堵した。

いるかどうかも分からない神様に、いつの間にかすがっていた自分に気づいた。


この病院から親元の家までは歩いて20分ほど。

母は昼間に、父は仕事帰りにでも見舞いにやってきてくれる。

しかし、私はどこか、なぜか自分の感情を抑えられない。

両親と話すと言葉が荒くなってしまうし、そもそも言葉を交わしたくないと思ってしまっている。

何故だろう?


手術の不安が知らぬ内にプレッシャーになっているのか。

それともこの病状を親のせいにして勝手に被害者ぶっているのか。

もしそうなら最低だ。



手術後一週間ほどは術後の経過を見る必要があるそうだ。

つまり来週に手術、その次週に術後の静養。あと二週間でこの生活は終わるはずだ。


もう終わらせたい。

この窓から空を眺める生活にはうんざりだ。


早く、日常に戻りたい。今の願いはただそれだけだ。


クリスマスのプレゼントはそれだけでいい。

入院と検査(緊急入院から15日目)

12/18(金)。

私は再び入院している。

今日は朝から病院を訪れた。

そして尿検査・採血・心電図・レントゲンを行った。

この病院は本当に多くの医師と患者がいるようだ。工場のラインの様に手際よく検査が行われる。


そして私の担当医との始めの診察。

どんな人だろうか?

また、「そういう」人だろうか?



その不安はすぐに消し飛んだ。
医師は丁寧に、しっかりと病状とその対応を説明した。

人間としても穏やかで、言葉にも気遣いが満ちあふれている。

この人なら。


以前は迷った検査の同意書を私は間髪入れずにサインした。


その後に私は内視鏡超音波とERCPの2つの検査を受けた。

私はこれまで胃カメラを飲んだ事がなく、麻酔をした深い意識の中でも何度も嗚咽を繰り返した。

2つ目の検査が終わると私は放心状態で、いつの間にか眠りについていた。

その深い意識の中で、今日受けた医師の言葉を思い出していた。


「検査をして見ないと分からないが、癌になってないか調べる必要がある。」


改めて面と向かって言われた「癌」という言葉は私の心を揺さぶり続けていた。

親元での静養(緊急入院から10〜14日目)

待ちわびた電話が鳴った。

Z病院から明日、診察を受け午後から入院可能だと連絡が来たのだ。

手術に不安を感じながらも待ち続けていた瞬間が訪れたのだ。


この数日間、親元でゆっくりとした時間を過ごした。

数年ぶりとなる両親との生活は、学生時代の懐かしい日々を思い出させる。


会社でのあわただしい時間と違い、ここでは永遠に続くような穏やかな世界が保たれていた。


それに、母が私の身体を気遣ってつくってくれた低タンパクの料理は私を内側から癒やしてくれていた。

母さん、ありがとう。



明日から入院になるだろう。
どうなるかは分からないが、もう心の準備はできている。


健康な身体になりたい。

いよいよ、そしてやっと。
本当の治療が始まる。

病院生活7〜9日目

この病院の退院の日がやってきた。

点滴はもうない。

食事も消化に負担が少ない病院食を食べられるようになった。

自分では入院前ぐらいの体調に戻れたんではないかと信じている。


流石に9日間もいると、愛着というか住処に近い感覚が病床に沸いていた。

自分の荷物を整理し、久しぶりの私服に着替えて両親を待つ。


この病院を退院して、受け入れ先のZ病院のベッドが空くまで親元で過ごす事になっている。


両親の2人は昼前にやってきた。

海外旅行の様な大きなキャリーバックを持った、病院に似つかわしない格好につい笑ってしまった。

退院の手続きと費用の支払いを済ませた。9日間の入院で十万円を超えた金額であったが、私にはその値段が高いかどうかも分からない。

命の値段を誰が決めるのだろう?



病院から一人暮らしをしていた自宅までタクシーで移動した。

久しぶりの外の世界は、明るく、変化に富み、そこで生きる人びとの元気な姿がどこか羨ましく思える。



戻った自宅は、両親が整頓してくれていて小綺麗だった。

「私たちが来た時はひどく散らかっていて、アナタが苦しんでもがいた姿が目に浮かんだわ」

母のその言葉は私が救急車を呼んだあの夜を思い出させた。

生きていた良かった。

この言葉にこんな実感をこめた事はない。

まだ生きている、その価値を私は愛おしく思う。



いくつかの荷物を持ち、私は親元の家へ移った。これからは入院を待つ日々が始まる。

病院生活5〜6日目

気のせいならば良いが。

身体が重くなり、集中力も散漫に感じる。

連日、点滴に見下されているからだろうか。空腹という訳ではないのだが、周りの患者が食事を取っているのを見るのが辛い。


午前中に母から連絡が来た。
紹介状を持って向かった病院の受け入れが難しいらしい。

昨日いまの病院の婦長と医師に事情を話し、受け入れを希望する病院への紹介状を書いてもらったのだ。

もし受け入れ先の病院が見つからなければ、退院もできない。ただ、この点滴生活で時間を浪費することになる。

私は何も考えられずベッドに横たわった。

目をつぶると鼓動が伝わってくる。少し息が荒い。自分でも分かるほど混乱している。

判断は正しくなかったのか?

どうしたら一番良いんだ?

むなしい自問を続け、眠りに落ちた。


「寝ているところごめん。ちょっと向こうで話そうか。」

声で目が覚めると母がベッドの横のイスに座っていた。


私は眠い目をこすり、同じフロアの談話室まで一緒に向かった。


「他の病院を紹介してもらったの。Z病院。ここなら受け入れてもらえそう。」

私は母が持ってきたZ病院のパンフレットに素早く目を通した。

「家からも近いし、有名な大学病院よ。専門の医師もたくさん常駐しているらしい。」

これは…、久しぶりの良い話じゃないか!
ここに転院できれば手術の不安もずっと減るに違いない。

「ただね」

母を見ると私の内心の喜びほど顔は明るくない。

「いまはベッドがいっぱいなんだって。予約はしておいたから連絡は来るんだけど。それが数日なのか一週間なのか、もっとなのか、分からないのよ。そうすると年内に退院、っていうのも難しくなると思うわ。…どうする?」

母自身もどうすべきか迷っているのが伝わってくる。

私にとっても入院期間がまた伸びる、その事実はとても重たいものだ。

私は言葉通り、本当に頭を抱え、栄養が足りていない脳で必死に考えた。

数十秒か、それとも数分か。沈黙を破ったのは私の方だった。

「私はZ病院を希望するよ。理由はいまの病院でも、年内退院は順調に行った場合の話しだ。何かあればこのまま居ても時間がかかる事は起こるかもしれない。それならまず、手術に安心できて親の家に近いZ病院に移ろう。」

私が矢継ぎ早にそう伝えると、母も決心した様だ。
そしてすぐに婦長に転院の旨を伝え、予約していた検査もキャンセルした。


これが本当に正しい判断だったかは分からない。

しかし、本当に自分の身体の事を思った時に出た本心の言葉だった。


まだ手術は始まってはいない。

だが私たち家族の決断と努力が、少しでも良い結果に繋がればと祈ることしか今はできない。

病院生活3〜4日目

することが何もない。

身体はいたって健康だ。いや、病人なのだが生活に不自由はない。

あえていうならば何も口に出来ない事が辛い。水を飲まなくとも、点滴でトイレに行くんだなぁ、とボーっと考えてしまう。

この土日の間、両親に色々と調べてもらった。

このA病院、執刀医、病気、セカンドオピニオン、治療法についてなど。

私は一晩たっても気持ちは変わらなかった。

「この病院では手術を受けたくない」

救急を受け入れてくれ、非常に感謝している。
看護士さんたちは非常に丁寧だ。
医師も優秀な方が多いのだろう。

しかし、自分の身体が裂かれると想像すると、どうしても不安を飲み込めないのだ。

両親との話をする中で「都内の病院に移る」という合意が固まった。

入院、手術、術後を考えるとそれが総合のリスクを抑える事にもなると判断したのだ。

もちろん、単純に何かあった時に親が対応し易いというメリットもある。


三人で合意が取れてすぐ、ナースステーションに向かった。今日は日曜日で医師がいない為、病院を移動したい旨を看護士に伝達してもらう事にした。

そして次の日にでも医師と話して、対応を話し合う約束をもらう事ができた。


私は連日、一時間以上かけて母に来てもらう事が負担になってないか心配になり始める。
これで母まで倒れたらどうしよう…。

不安を感じながらも私はベッドに横になった。


私と隣人しかいない四人部屋も9時に消灯となる。

カーテン一枚で区切らた隣のベッドから、寝返りや息の音まで聞こえてくる。


この空間に馴染めずに私は、音楽プレイヤーのイヤホンをつける。

軽快に流れる英語学習のいきいきとした会話。


私にこの英語を使う場面は訪れるのだろうか?

誰か教えて欲しい。